「ニュースを見ると、気持ちが落ち込んでしまう」
「災害や事件の場面が、頭から離れない」
「世界で起きていることを考えると、無力感に襲われる」
「人の苦しみを、自分のことのように感じてしまう」
「こんな状況なのに、自分だけ楽しく過ごしていていいのかな」
そんなふうに感じることはありませんか
世界では毎日のように、さまざまなことが起こっています
紛争、災害、貧困、環境破壊、動物の絶滅
インターネットやSNSによって、私たちは、それまでなら知ることのなかった遠い場所の出来事まで知ることができるようになりました
それは、とてもすごいことです
けれど、その一方で、
「自分ではどうすることもできない現実」まで、自分の心の中に入り込んできてしまう
そんなことも、起こるようになった気がしています
他人の苦しみに強く心を動かされ、知らないうちに自分自身まで消耗してしまうことは、「共感疲れ」と呼ばれることがあります
優しい人ほど、共感できる人ほど、世界で起きていることを自分とは無関係なものとして切り離せず、苦しくなってしまうことがあります
でも私は、
世界に心を向けることと、自分の人生を生きることは、両立していい
むしろすべき、と思っています
世界の出来事に心を痛めることは、悪いことではない
私は、自宅にテレビがありません
ラジオもつけないので、能動的にニュースを取りに行かない限り、世界情勢はあまり入ってきません、SNSにもニュースは流れてきますが、そもそも見る時間があまりない
そんな私に、夫さんは時々、自分が気になったニュースを送ってきます
「どこかで火山が噴火しそう」
「遠くの国で、戦争が始まったらしい」
そんなニュースの中で、彼が使っていた言葉に、なんとなく不穏な響きを感じ取った私は、
「そうなの、でも仕方ない」
と返信しました
この「仕方ない」という言葉、冷たく聞こえるかもしれません「そんなこと言っていいの?」と思う人もいるでしょう。
もちろん、世界で起きていることに心を痛めること自体が悪いわけではありません
食べるものに恵まれない子どもがいる。紛争で苦しんでいる人がいる
人の手によって絶滅に追いやられていく動物がいる、汚れた海で死んでいく生き物がいる
そういう問題に心を向けることは大切なこと
そして、遠くにいる誰かの苦しみにまで心を向けられるのは、その人の優しさや共感性の高さでもあるでしょう
その感性は、大切にしてほしいと願います
ただ、
世界の問題に心を痛めることと、その問題によって自分の人生まで苦しくすることは、別の話です
「世界の問題」と「私の人生」を一緒にしない
セッションという限られた場ですが、これまで多くの方と深いお話をしてきて、気がついたことがあります
それは、「自分ではどうしようもない大きな現実に、打ちひしがれてしまう人」がいるということ
災害の映像が頭から離れない、環境問題を考えると、自分が何もしていないことが申し訳なくなる、政治に怒りを感じ続ける、世界のどこかで誰かが苦しんでいると、自分が楽しく過ごすことに罪悪感を感じる
もちろん、そう感じること自体は、その人の自由です
悲しんでもいい、怒ってもいい、何か行動を起こしてもいい、そういう思いで世界を変えてきた偉大な方は多いでしょう
世界には、自分ひとりでは変えられないことが、たくさんあります
一人で紛争を止めることはできない、大きな災害を一人で防ぐこともできない、地球規模の環境問題を、一人で解決することもできない
それを認めることは、無関心になることではありません
自分の力が及ぶ範囲を知ることです
そして、
「私には何ができるのか」
「私は、どこまで関わりたいのか」
「これは私が背負うことなのか」
を、自分で選び直すことです
「私の問題ではない」と切り捨てる必要もない、かといって、世界中の問題を自分の問題として背負う必要もない、その間に、自分の立つ場所はあるはずです
「仕方ない」は、諦めではなく境界線
だから私は、ときどき、
「そうなの、でも仕方ない」
と思います
これは、「どうでもいい」という意味ではありません
「私にはどうすることもできないことがある」という現実を、一度そのまま認めるということです
そして、その境界線を越えて、自分の領域まで持ち込まない
これが、私にとっての「仕方ない」です
「仕方ない」そのあとに、
「じゃあ、私はどうしたい?どのように関わりたい?」
と考えてほしい
世界で起きていることを知る、心を痛めることもある、それでも、
「私は、私の人生をどう生きたい?」
というところに戻ってくる
それは、境界線を引くということでもあります
境界線というと、「人と距離を置く」「他人のことなんて知らない」というイメージがあるかもしれません。でも、私が考える境界線は、そういうものではありません
「これは私が関わる領域」「これは私の関わる領域ではない」
と知ること
そして、自分の内側の領域に意識を戻してくることです
優しい人ほど、「自分だけ幸せでいいの?」と思ってしまう
共感性が高く、優しい人ほど、
「世界でこんなことが起きているのに、自分だけ幸せでいいの?」
と思ってしまうことがあります
あなたは、あなたの日常を優先していい
好きな人と楽しく過ごして、仕事を頑張って、疲れたら休んでいい
美味しいものを食べて、旅行に行って、笑って、自分の人生を楽しんでいい
それは、世界で苦しんでいる人を見捨てることではないと思うの
あなたが今日を生きることと、世界のどこかで起きている問題は、どちらか一方しか選べないものではないのです
むしろ、自分の人生をちゃんと生きているからこそ、自分にできることを選ぶことができます
私も、奄美の海を横目に晩ご飯を考えている
私の両親が住む奄美大島には、嘉徳浜(かとくはま)という、とても美しい浜があります
その浜が埋め立てられつつあるという記事を、私は横目で見ていました
もちろん、何も感じないわけではありません
大切な、美しい場所だから悲しい、できれば残してほしい、そう願います
でも、その記事を見ながら私は、「今日の晩ご飯は何にしよう」「何時まで仕事をして、買い出しに行こう」などと考えます
それは、「私には何もできない」と無力感に自分を明け渡しているわけではなく、まして、「どうでもいい」と思っているわけでもない
私には私の人生がある
私にできることがある
私がやりたいことがある
私が目指したい世界がある
私が大事にしたい時間がある
私が一緒に過ごしたい人がいる
私がどう生きたいのか…という願いがある
こう書き出すと、エゴに感じる方もいらっしゃるかな?
でもね、それらを全部、机の上に並べて考えたうえで、
今の私には、日々を粛々と生きることが最善だと思っている
自分が手をつなげる範囲の人たちと一緒に、自分にできることを積み重ねていこうと思っているの
世界全部は救えない
でも、自分の手が届くところを変えていく
それが今、私にできることかなぁ…
「感じない」のではなく、「感じたうえで選ぶ」
私は、自分の身体と感情に忠実でありたいと願っています
もちろん、わーっと誰かの感情が流れ込んできたり、誰かの悲しみに同調してしまったりすることもあります
でも、「今、私は誰かの感情に引っ張られているな」と気がついている
それが、自分にとって大切なことなのだと思っています
「感じたこと」と「その感情に自分の人生を委ねること」は、別です
世界の問題に悲しみを感じてもいい
でも、その悲しみに乗っ取られたまま過ごすのか、それとも、「私は今、何を大切にしたい?」と、自分の人生に意識を戻すのか
そこには、選択肢があります
自分にできることに集中する
自分だけではどうにもならない外側の出来事を、ずっと嘆き続けるよりも、自分の内側にしっかり意識を根ざして、
「私には何ができる?」
と考える
そのほうが、結果的に世界は少しずつ良くなっていくのではないかと思うのです
大きなことをしなくてもいい、誰か一人に声をかける、自分の仕事を丁寧にする、身近な人を大切にする、自分が持っているものを、誰かに分ける、自分の得意なことを誰かのために使う、自分が生きたい世界を、自分の身近なところからつくっていく
そういう小さな選択も、世界との関わり方のひとつです
世界を変えようとする前に、まず、自分の足元を生きる
私は、そのほうがずっと現実的だと思っています
「仕方ない」の、その先へ
「そうなの、でも仕方ない」
私は、ときどきそう言います
でも、それはそこで終わる言葉ではありません「私にはどうにもできない」と認めた、その先に、
「では、私はどうしたい?」
がある
今日、何を大切に過ごしたいか
目の前にいる人と、どんな時間を過ごしたいか
今、自分にできる、小さな一つは何か
世界のすべてを背負わなくていい
誰かの人生まで背負わなくていい
あなたは、あなたとして、地に足をつけて暮らしていい
自分の幸せを追求していい
そして、自分の人生を生きながら、手の届く範囲で世界に手を伸ばせばいい
世界に心を向けることと、自分の人生を生きることは、両立できます
「仕方ない」と言えることは、世界を諦めることではありません
もしかしたらそれは、
自分の人生を、世界に明け渡さないこと
なのだと思います
