なぜ私たちは、「事実」を「事実」として認めるのが難しいのか

前回、心の足場を固めるという話を書き
そこで「事実」を事実のまま認める、をおすすめしました、が

見えているのに、見ないふりをしてしまう
分かっているのに、「そんなはずない」と打ち消してしまう

私たちはなぜ、事実をそのまま認めることが、こんなにも難しいのでしょう

“事実”はさほど優しくない

ことが理由としてあるかもしれない

もう壊れてしまった関係
失敗に終わった仕事
自分の元を去っていった人

事実は心地よくないこともあれば、認めたくないこともある

そして、その心地よくない事実を認めることには、痛みが伴うから

「感情」が「事実」を見えなくしてしまう

ふたつめに上げる方が、認識しずらく面倒かもしれない

あまりこれを認識する人は多くないけど
「事実」にはもれなく「感情」がくっついてきてしまうのだ

「悔しい」「悲しい」「怖い」といったネガティブな感情が、
事実の上にフィルターをかけ、事実の姿をゆがめてしまう

感情は思考よりも先に、瞬時に反応する
だから、気が付いた時には、「事実」に覆いかぶさる「感情」のフィルタの方を見てしまう

そのため、「事実」をありのまま見ることができなくなる

また、「事実」を認めてしまうことで、既存の関係性や役割、自己や他者のイメージが変わってしまうことを、人は本能的に恐れるものでもある

それは、自己防衛本能なのだけれども、「事実」から目を逸らす理由にもなっている

「事実」と「感情」を分けて見る

そこで、私がおすすめしているのは
「事実」と「感情」を分けて見ること

私たちは、「起きたこと(事実)」に反応しているつもりでいて、
実はその“出来事”に対して湧き上がった感情や、
そこから生まれた考えに反応していることがほとんどです

たとえば——

友達から返信が来ない

このとき、

実際に起きた「事実」は、返信が来ていないということだけ

そこから湧いてくるのは、「寂しい」「不安」という感情
そして「もしかして嫌われたかも」といった思考です

つまり、「返信がない」こと自体は中立的な事実なのに、
そこに自分なりの意味づけをして、気持ちが大きく揺さぶられる
そんなことが、私たちの日常にはよく起こっています

ここで少し意識してみたいのが、
「事実」と「感情」「思考」をいったん分けてみるということ

これは「感情を抑えなさい」とか、「冷静になれ」という話ではありません
むしろ逆
感情を認めたうえで、そこと少し距離をとって眺めてみる、という視点です

どうやって?

やり方はとてもシンプルです

何が起きたのか?(事実)

それに対して、どんな感情が湧いたのか?(感情)

どんな言葉や意味づけが頭に浮かんだのか?(思考)

この3つをノートに書いてみるだけでも、
感情に飲み込まれていた自分に、少しずつスペースが生まれていきます

感情を「切り離す」わけではありません

分けてみる、というのは「分類する」という意味です

この本当の目的は、感情を丁寧に扱うための余白をつくること

「これは悲しい。これは悔しい。でも、起きたのはこういう事実だった」

と静かに見つめ直すことができたとき、

感情に巻き込まれずに、現実と対峙することができるようになります


この辺を練習していく連測講座やりますので、7月25あたり空けておいてくださいね