良いか、悪いかは、自分が決めていい

これはいい、これは悪い
あの人は間違っている、この人は正しい
あれは大丈夫、これはダメ

それはやっちゃだめなのじゃー
それは間違っているのじゃー
と、自分や人を責めがちなもんですが

そういった判断は、ジャッジメントという表現もします
その判断によって私たちはよりよく生きようとしてきたし、その判断は生物としての生き残りのくせなので、まるっとやらないというのはなかなか出来ない(私は)

しかしながら、あれもこれもバッサバッサ切り捨てていると、それは同時に、自分自身にも刃を向けていることでもあるので、自分自身がとても窮屈な生き方をすることにもつながる

すなわち、ジャッジメントは、自分の生きにくさに直結しているんです

もし、生きにくいと感じてこの記事を読んでいる方がいるならば、自分が「これはいい」、「こうするべき」「これをしてはいけない」とジャッジしていることを列挙して、ひとつづつやめていくと楽になっていきますよ

ジャッジメントの根っこって、とっても深い
なぜかっていうと、もともと生き残り策だから
生きるか死ぬかという生死が掛かっていたから、なかなかその判断はやめられない

しかしながらまた、その生き残り策は、人の数だけ蓄積があって、人の経験の数だけ正解がある
だから、正解は無限にある
同時に、間違いも、悪いことも、ダメなことも、生き残らない法則もまた無限にある

つまり、絶対的な「正解」も「間違い」も実質ないに等しいの

例えば、よく上げられる例で「人を殺すこと」は間違っているのか?という問いがある
うん、間違っている、間違ってるに決まってる
そう思えるのは、平和な世の中に生きている人間の特権だと思う

つい80年ほど前までは、日本だって戦争に参加して、私たちの先祖は敵国の人を殺しに行ってたわけだし、今だって武力紛争の地域はたくさんある(リンク先の地図を見ると、こりゃ平和な地域の方が少ないなって感じる)

そうすると、例えば戦時下ならば敵を多く殺した方が勝ちであり正義なわけだし、聖戦の大義の元戦っている方々からすると、正しいからこそ戦っているのだろう

つまり、立場が変われば、簡単に正誤はひっくり返る

夫と妻、上司と部下..など
立場がちがうため、お互いの「正」が、異なっている
しかし異なっていることに、気が付かないまま話をしているので、わかりあえない、会話が進まないというケースはよくあるよ

実は、その位危うい考えに基づいて、私たちは人と接しているんだよね