「見る」目線の先に生まれる世界

見えている世界は、種によって違う

大学で「比較認知科学」を学んだとき、印象に残った話があります

同じ地球で生きていながら、動物や昆虫、そして人間とでは、世界の見え方がまるで異なるというのです

たとえば、蝶やミツバチは紫外線を見ることができます

彼らにとって花の中心は淡い緑色に光り、その色が「そこに養分がある」という確かな手がかりになります
私たちには決して見えない景色です

鳥類も同じです
人間の約7.5倍の視細胞を持ち、単純に言えば“7倍の視力”を備えていると言われています
彼らの目に映る世界は、私たちが想像する以上に、精緻で鮮やかなものなのかもしれません

人間同士でさえ、同じものは同じようには見えていない

こうした違いは、種による違いだけの話ではありません。
人間同士でも、実は“見えている色や世界”は一様ではないと言われています

青い虹彩を持つ人は、北の地域に住む人に多く、
光をまぶしく感じやすく、赤色を識別しやすいそうです

黒い虹彩を持つ人は、南の地域に住む人に多く
強い光に強く、明るいところでも色の細かな識別ができるそうです

左右の目で色の見え方が異なることもあるそうですし、
例え親子であってでも、見え方は異なるのだそうです

誰もが当たり前のように「同じものを見ている」と思いがちですが、
本当は、私たちはそれぞれ“まったく別の世界”を見ているようなのです

さらに、人は「見たいものだけを見ている」とも言われます。
「Invisible Gorilla(見えないゴリラ)」や「ムーンウォークする熊」の例が示すように、
意識を向けていないものは、そこにあっても認識されないのです(ググってみてね)

「見る」とは、主観であり、意識の働き

こうしてみると“見る”という行為は、客観的なものではなく、
むしろ深く主観に根ざした体験だとわかります

意識を向けなければ、見えていても「見えない」
そして、見えなければ、存在しないものと同じになってしまう

だからこそ、意識を変えたいときは、「見る」という体験がとても有効なのです

「見る」ことは、エネルギーを向けること

月を見るときも、花に目を向けるときも、誰かを見つめるときも、
視線は、エネルギーを運びます

セッションでは、「子どもの頃、お母さんに見てもらえなかった」という声を伺うことが、多々あります
「見る」という行為は、一番身近な愛情表現なのです

そしてまた逆に、イヤなのにどうしても目が逸らせないこともあります
怖いから目を離せないというのは、敵から身を守るために身体が警戒をしているためです

イヤなもの、嫌いなものにばかり目が行くというのは、その警戒を解けてない状態ともいえるのかもしれません

もし、現実的に警戒しなくても良い状況にも関わらず、イヤなものばかり見てしまうなら、安心するもの、美しいものに、意識的に目を向けてみてください

「見る」は、静かな愛のかたち

ひとは“見られる”ことで、自分を形作っていきます
こどもが見て欲しいと願う時、それは他者との関わりの中で、自分という「存在の認識」を作っているのです

でもそれは、決して子どもだけではありません

“見る”という行為は、とても小さく控えめなものですが
大きなエネルギーが動きます

慈しみを込めて視線を向ける
それは、静かで確かな愛の表現です

見る、見守る、ということは
相手の存在を肯定し、応援することと同義なのです

あなたが目を向ける
あなたが意識を向ける、その先に
あなたの世界は形作られていくのです